2009年1月末から2月末にかけての私たち調査隊の発掘は、「アブ・シール南丘陵遺跡」を中心に行われました。
本来この地域の発掘は8月~9月にかけての60日間があてられているのですが、2008年は9月が断食で有名なラマダン月だったため60日間はやれませんでした。また、昨年から文部科学省の科学研究費がSというタイプの大型のものとなり、発掘よりもメンフィスネクロポリスの景観や遺跡などの整備計画立案のための準備調査を数か月にわたって行うために発掘を2回(夏と冬)に分けることとなり、1月末から2月末に本年度最後の調査を行ったのです。
この時期には、前回の記事にも書きましたとおり、エジプトの高等教育省兼科学研究担当国務省と考古庁の合同シンポジウムで東海大学と早稲田大学が共同で調査(1995年~1997年)を行ったリモートセンシング探査法の成果発表がありましたが、私は日本での仕事が立て込んでいましたのでエジプトにずっといるわけにいかず、1月末から1週間、2月中旬に1週間と、2度に分けてエジプトに行きました。
前回、2008年8月の発掘では、始めてすぐに丘陵頂部の東南部に新王国時代第19王朝のトゥームチャペル(神殿付大型貴族墓)を発見しました。軸線や石組みの方法などから丘陵頂部西南部にあるカワムエセトの葬祭殿とセットであろうと考えていました。そして調査終了間近に、トゥームチャペルの第一中庭の西北のコーナーに、シャフトの開口部が見つかったのです。隊員の期待は高まったのですが、9月1日からのラマダン月に労働者に作業を頼むことは反宗教的行為ですので、やむなく閉じたのでした。
ですから、今回の発掘にはとても期待を持っていたのです。しかしながら、発掘2日目にそのシャフトが途中放棄されていることがわかり、がっかりというか拍子抜けしてしまい、その後の1か月残っている予定を作り直す必要が出てしまいました。そこで、考古学の基本に戻ってトゥームチャペルの解剖的発掘を始めましたが、掘れども掘れどもどこにもお墓のかけら、影すら見えません。しかし隊員はめげずに、黙々と掘り続けました。
そして私が再び2月13日に日本を発ち翌14日から発掘に合流した、まさしくその日のことでした。トゥームチャペルの西側壁を南から北へ掘っていったところ、最北部のピラミッド跡の真西のところから掘り込みが出、そこを掘り続けると地表面から1.5メートル~2メートルのところで、シャフトの開口部が出たのです。
2メートルほど堀り進むと東壁に開口したところが出、そのまま掘り続けますと東(ピラミッドの下)に向って羨道が2メートルほどあり、その先に約4メートル四方の部屋が出たのです。中は盗掘にあったため荒らされていましたが、上質の硬質石灰岩で作られた石棺が壊されてはいたものの、南壁にくっつくように残っていました。近づいて照明を当て観察しますと、何と「高貴な女性イシスネフェルト(美しいイシス女神)」とヒエログリフで書かれているではありませんか。中の遺物、特に壷などの色彩や形から判断して、新王国時代第19王朝に属することが分かりました。
この時代、イシスネフェルトという名の有名な女性は2人います。一人はカエムワセトの母親(ラムセス2世の王妃のひとり)とカエムワセトの娘です。しかし、王妃のタイトルには高貴な女性というようなゆるい表現は普通は使われないので、この女性はカエムワセトの娘で間違いないと思います。王妃の墓はいくつも見つかっていますが、宰相の娘の墓はエジプト発掘史上初めてといっていいのです。(カエムワセトはラムセス2世の第4王子でありながら宰相でもあり、事実上はファラオの仕事をしていましたが、ラムセス2世が長寿だったため王より先に亡くなり、ファラオになれなかったのです。)
残念ながら、石棺の中は完全になくなっており、そこには2つの頭蓋骨と骨が何ヶ所かに散らばっていました。部屋の中で壊され散乱している石棺の破片を集めれば壊された部分の多くは復原できると思うのですが、ともかくすごい発見ということになりました。誰が知らせたのか分かりませんが、考古庁のサッカラ監督所長や観光警察署長などが次々と訪れたり、カイロ博物館長からも祝いの電話が来ました。エジプト考古庁長官のザヒ・ハワス博士は、あいにく米国に行っていて、この発見を知らせることは出来ませんでした。1日たったところで、考古関係の方々から祝辞がたくさん来ました。
アブ・シール南丘陵遺跡は、2001年のクフ王の名の入ったスフィンクスやセクメト女神(2007年~2008年にかけて日本全国を巡回展示しました)、2002年の古代エジプト最古の大型石造建造物の発見以来7年間何も発見できず、考古庁からもこの地域にはもう何もないのではと言われていました。ですから今回の発見、特に丘陵頂部という特殊な場所にきちんと歴史に残っている人の墓が造られ、それを私たちが発見したという事実は、発掘史上に残るものなのです。これで、この丘陵の上にはカエムワセト自身の墓やカエムワセトの家族の墓がいくつか造られていた可能性が出てきました。
それにしても、「やっぱり発掘はいつどうなるか分からない」という先達の言葉が思い出されます。

 注)なお、以上の文章はエジプト帰国後すぐに書いたものですが、私たちの発見を発表する条件として、まずエジプト考古庁からその事実を発表した後にこちらで発表する、というのがありまして、遅くなってしまいました。今回の発見はエジプト考古庁ではカイロで3月3日に発表、4日に東京で記者発表し同日21:00のNHKのニュースで全国放送され解禁となりました。

イシスネフェルトの石棺

イシスネフェルトのミイラが入っていた石棺 (クリーニング後)

イシスネフェルト石棺側面のレリーフ

石棺側面のレリーフ

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アケトスタッフ

吉村作治のエジプトピアを運営する株式会社アケトのスタッフです。